2021年7月19日(月):世界は救いに溢れているぐらいがちょうどいい。

下らない自分語りになるが、俺は高校生ぐらいまで小説が好きだった。今でも好きではあるのだが、当時は熱量が違った。毎日のように小説を読んでいた気がする。

といっても、美しい文章に癒されるだとか、知識を得るのが楽しいといった感覚はなくて、一貫性ある秩序立った世界を愛していた。

人間は何を考えているのか分からない(たぶん一生分からないと思う)が、小説の文章の意味は分かった。結局、それが全てで、だから、活字を読み続けていた。

そんなある日、サルトルの「飢えている子供たちを前にして文学に何ができるのか?」という言葉に出会った。この質問はズルくて、小説は万人を救えるツールではないという真理を突きつけてくる。

飢えた子供以外にも小説じゃ救えない人はいて、何なら小説じゃ救えない人の方が多い。どころか、大半の人間は、小説を読まない。

自分にとって重要なものが、世界にとって大した意味がないという事実が辛くて、当時は結構悩んだ。

悩んだ末に俺が出した結論は、「小説は救える奴しか救わない」で、それで冷めちゃったのか、以降、明らかに小説を読む頻度は減った。

これが映画なら、小説家を目指す天才少女とかに出会って、情熱を取り戻したりするのだろうが、現実は無秩序なので、伏線は放置されたままだ。

綺麗事が書きたいなら、最近心境の変化があって、それでも小説の力を信じたいとかで、文を結ぶべきだろう。

でも、俺はもう小説の力を信じていない。きっと太宰に救われた奴より、鬼滅の刃で救われた奴の方が多いし、何なら太宰に救われた奴よりサムライ8に救われた奴の方が多いかもしれない。

ただ、最近になってようやく、小説に意味がないとは思わなくなった。たくさんの人を救えなくても、誰かを救えるなら、少なくとも存在した方が有益だ。

世界は救いに溢れているぐらいがちょうどいい。