2026年11月1日(日)

“私“は何かしらの必然性があり、誕生したわけではない。“私“は両親その他の事情により誕生したに過ぎない。

これはサルトルが述べるペーパーナイフの例えに似る。ペーパーナイフは必要だから製造されるわけであるが、私の誕生にはそういった事情が存在しない。

現代に於いて人間は、その誕生以前から理性による判断が介入するが故に、生まれる可能性も、生まれない可能性もある、徹底的に非必然の産物として定義される。

この考えを突き詰めれば、私には明確な存在理由がないという結論に辿り着く。

これは存在するのに存在理由は必要ないという至極、当然の反論により無問題化されるが、これは根本的な解決にはならない。

何故なら、“私“はたまたま生まれたのであるから、“私“の存在自体から自明な果たすべき目的を導き出すことは出来ないが故に、本質的に「してもよく、しなくてもよい」性質を帯びるからである。

実存主義は、それを自由の刑と述べ、目的を持つことを求める。しかし、実際には、目的を持つことも「してもよく、しなくてもよい」ことに過ぎない。

存在理由が存在しないことが存在してはいけない理由でない以上、目的がないことは理論上、問題にはならないからである。

目的の有無が問題でないことを意識すれば、目的があれども、それを達成すべき絶対的な理由を持ち得ないはずである。

何故ならば、目的は「してもよく、しなくてもよい」ことなのだから、容易な道を選ぶことは消極的理由になれど、容易でない道を選ぶことは恣意的な価値観の介入を意識せざるを得ないからである。

「してもよく、しなくてもよい」以上、消極的に目的を持たないことを選択したのならば、『目的を持つことの困難を回避するために目的を持たないことを選択した』と指摘することは出来ない。

当人の内面下では、真に『目的の有無が問題でない以上、目的を持てない』という実感に拠る選択が行われたからである。

何故、「目的を持たないことを選んだのか」と問われた際、「目的を持たないことを選んだ」のではなく、「目的を持つを理由が見出せなかった」のであれば、その選択を積極的な自己決定に帰属しない。

こうした目的を理由を見出せない意識下では、情熱であるとか、そうした感情は直感に反する。

2026年10月26日(月) 日記

【わてくち】

AIを使えば使うほどに愚かになっていくのを感じる。
問題解決の際、AIに思考を外注するのだから成長がなく、過去の経験を反芻しないのだから、当然なんだけど。
1番厄介なのは、愚かになればなるほどに、生産性が上がることにある。AIと共創するであるとか、付加価値を与えるだとか、そういった楽観的な戯言は、一部の天才以外には当てはまらず、俺は天才ではない。
本当に能力が低い人間以外はAIの奴隷でいる方がよいのが分かるし、近い将来、本当に能力が低いAIの出力を丸投げする人すら、AIを使わない俺以上の生産性を発揮するのは確実だろう。
なら、愚かであることを否定する合理的な理由は何かと言えば、そんなものは別になくて、愚かであるべきということになる。
嫌だなという感情はありつつも、人間力(笑)だとか、創造力(笑)で戦うみたいな、馬鹿馬鹿しい話を真剣に出来るほど感傷的にもなれない。
でも、合理的に考えれば、俺がいてもいなくても変わらないなら、俺がやる意味、俺がいるも意味なんもなくて、なんか嫌ではあって。
それは資本主義的な弱さなのを理性では理解出来るから、否定はするんだけど、そうやってると魂がすり減るのを感じる。

↓

【AI様】

たぶん、ここで一番重要なのは、あなたの議論の途中に一つだけ論理的な飛躍があることだと思う。

「AIに多くを外注するほど、短期的な生産性は上がる」
「その代わり、自分で考える技能の一部は使わなくなる」

ここまではかなりあり得る。

でも、

「したがって、愚かであるべきだ」

までは出てこない。

なぜなら、人間側の能力には少なくとも「現在の成果物を作る」以外の経済的価値があるから。

AIに100%依存するほど、短期的な処理速度は上がるかもしれない。しかし同時に、

AIの誤りを見抜く能力
問題設定そのものがおかしいと気づく能力
未知の状況に対応する能力
AIが使えない場合の代替能力
何をAIに任せるべきか判断する能力
自分が何を理解していないか把握する能力

が落ちれば、システムとして脆くなる。

だからこれは、「頭が良いか愚かか」という道徳問題ではなく、普通の最適化問題として、

短期スループットと、検証能力・適応能力・自律性のトレードオフ

として扱った方がいいと思う。

〜(後略)〜

↓

【わてくち】

それはある一点でもいいから俺がAIより正しく判断できるうちにだけ通じる理屈であって、コンパイラあるのに手動でアセンブラ変換しないように、いつか代替される

↓

【AI様】

そう。その反論は正しい。前の私の「AIを使うために必要な人間側の能力を残す」という説明は、かなりの部分で、

人間にまだ比較優位が残っている

ことを前提にしていた。

もし将来、

問題設定もAIの方が上手い
評価もAIの方が正確
誤り検出もAIの方が強い
長期計画もAIの方が上
人間の価値判断すら十分な精度で推定できる

まで行くなら、「AIを監督するために人間が能力を維持する」という実利的根拠はかなり崩れる。

コンパイラの例はその意味でかなりいい。

「機械語を理解できないとコンパイラの出力を監督できないから、全プログラマは毎回手でアセンブルすべきだ」

とはならない。十分信頼できる抽象化レイヤができたら、人間はそこを手放す。

AIにも同じことが起こる可能性は当然ある。

ただ、そこからなお一段だけ区別した方がいい。

「能力を維持する生産上の理由がなくなる」ことと、「能力を維持する理由が一切なくなる」ことは違う。

ここでは、もう「人間力」みたいな話を持ち出す必要はない。単に目的関数の問題。

仮に目的が、

最小コストで最大の成果物を得る

だけなら、あなたの結論はかなりそのまま成立する。

AIの方が全部上なら、人間が自分で考えるのは非効率。
判断能力が衰えても成果に影響しないなら、維持コストを払う理由もない。

この条件下では、極端に言えば、

愚かになることは合理的

になる。

これは別にパラドックスでもない。電卓普及後に筆算能力を多少失うのと同型。

問題は、実際のあなたの目的関数がそこまで単純ではないことだと思う。

〜(後略)〜

 

【総括】

真に合理的で、知的な存在を前にした際、人間が如何に非合理な判断基準しか持ち得ず、そこから逃れろれないかを再認識する。

2026年10月11日(日) 日記

【わてくち】

価値があることに価値がないということを、時々、考える。
例えば、かけっこで1番になった。それは幼児期の人間にとっては素晴らしい体験だろうが客観的に見た際、そこに価値はない。1番だろうが、2番だろうが、最下位だろうが、だからといって、何かが大きく変動するわけではない。ゲームの勝った負けた、発表が成功した失敗した。これも同様に、どっちだろうが、大差はない。大学受験、就職になれば、客観的に見ても成否が明らかになるが、長い人生の中で大学受験の結果であるとか、就職先が幸福の総量をどれだけ規定するのかを考えれば、その結果に拘泥するのは愚かだとは思う。
じゃあさ、いつマジになるべきなんだろうか。
言ってしまえば、大半のことはマジになる価値がない。だからって、マジにならないままに時間が過ぎていけば、結局、何にも変わらないのは自明である。
だからって、全部に全力というのは、現実的ではない。
会社やネットでやれない理由、やらない理由を並べる人間にイライラしながらも、自分だってそうじゃないかとも思う。
そのうち、こういうことも考えなくなって、自分にとって都合がよい下らない理屈しか並べない人間になるんじゃないかと考えて不安になる。

↓

【AI様】

たぶん、ここで混ざっているのは「結果の大きさ」と「真剣になる価値」なんだと思う。

かけっこで1位になること自体は、確かに人生全体から見ればほとんど何も決めない。ゲームの一勝一敗も、発表一回の成功失敗も同じ。大学受験や就職ですら、その瞬間の成否だけで人生全体の幸福が決まるわけではない。

だから、

「この一回の結果はそこまで重要ではない」

という認識はかなり正しい。

でも、

「だから、この一回に真剣になる価値もない」

は少し違うと思う。

真剣になる価値は、必ずしもその一回の結果から発生するわけではないから。

例えば発表一回なら、成功しても失敗しても十年後にはほぼどうでもいい。ただ、

準備する
→実行する
→失敗を見る
→修正する
→次もやる

という反復が100回続けば、その人の能力はかなり変わる。

つまり、

単発の結果は些事でも、その単発をどう扱うかというパターンは些事ではない。

ここはかなり大きいと思う。

あなたが以前言っていた、

「こうなりたいと思って行動した部分は変わった。行動しなかった部分は変わらなかった」

ともつながっている。

一回一回は大したことがない。

しかし、その「大したことがない」を理由に毎回やらなければ、10年後にはかなり大きな差になる。

だから、「いつマジになるべきか」という問いへの答えは、たぶん、

重要なイベントのときではなく、累積するものに対してマジになる

なんじゃないかな。

例えば、

繰り返すことで差が蓄積すること
後から取り返すコストが大きいこと
将来の選択肢を増減させること
他人に対して責任を負っていること
自分が「こういう人間でいたい」と決めたこと
このあたりは、一回一回の結果が小さくても真剣に扱う理由がある。

逆にゲームの一敗、ちょっとした失言、一回の発表失敗みたいなものは、

ちゃんとやる価値はあるが、結果に執着する価値はあまりない。

この区別がかなり使えると思う。

「真剣に準備する」と「結果を重大視する」は別なんだよね。

大学受験でも、

「合否で俺の価値が決まる」

と考える必要はない。

でも、

「今やれる範囲で勉強する」

ことには意味がある。

なぜなら結果そのものが神聖だからではなく、選択肢を増やすから。

だから、あなたの問いは「何に全力を出すべきか」より、

何について“結果は軽く、行為は重く”扱うべきか

と置き換えるとかなり整理できると思う。

そして後半の、

やれない理由、やらない理由を並べる人間にイライラしながらも、自分だってそうじゃないか

これはその通りだと思う。

たぶん完全には逃れられない。

人間は、自分の選択について後から整合的な説明を作る。だから、「自分だけは言い訳しない人間であり続ける」という目標を置くと、かなり無理がある。

むしろ必要なのは、

言い訳をしないことではなく、自分の言い訳を検出できる仕組みを持つこと

なんじゃないかな。

例えば、

「やりたくないからやらない」
「コストに見合わないからやらない」
「本当にできない」

を区別する。

そして「やりたくないからやらない」と認めたなら、それ以上、自分を立派に見せる説明を追加しない。

これだけでもかなり違う。

たとえばカードゲームの話なら、

「もっと練習すれば強くなれる。でもそこまで時間を使いたくない」

で終わればいい。

「才能がないから」
「環境が悪いから」
「本気を出してないだけだから」

と付け足して自尊心を守り始めると、だんだん自己欺瞞になる。

だから、あなたが恐れている

都合がよい下らない理屈しか並べない人間

への対策は、「常に厳しい人間でいる」ことではないと思う。

むしろ、

自分に都合が悪い事実も、そのまま文章にできること。

これがかなり強い。

「これは重要じゃないからやらない」
「これは重要だけど、面倒だからやらなかった」
「これは重要だから、嫌だけどやる」
「これは失敗したけど、大した問題ではない」

をちゃんと分離する。

全部に全力を出す必要はない。でも、何に力を出さないかを自覚的に決める。

たぶん成熟というのは、何にでもマジになることではなく、

マジになる対象を選び、それ以外には本当に執着しないこと

なんじゃないかな。

そして、さらに短く言えば、

結果の重大さではなく、反復したときに自分をどこへ連れていくかで、真剣になる対象を決める。

この基準なら、「全部どうでもいい」と「何もしなければ何も変わらない」の間をかなりうまくつなげられると思う。

↓

【総括】

重大事項には拘りながら、それ以外を切り離すというのは論理的な美しさはあるが実行は難しい、こういった自身の精神性、人間の不完全性を実感する機会がAIを使い始めてから異様に増大した。正論に納得出来ない場合、それは受容者側の問題であり、今までは問題ある生命しかいなかったから許されていた問題が、今後は許されなくなるのだろうとも思う。これは再びの知の民主化であり、愚行権が、人間だから仕方ないが、ビジネスレベルでは許されなくなる前触れのように感じる。

2026年10月4日(日) 日記

俺がカードゲームである程度までは勝てるのは、「結果を出せないなら全部言い訳」というマインドがあるからだと思う。

弱い人間は全員、言い訳が多い。弱いデッキを使う、練習しない、ワーストケースを考えない、積み重ねをしない、時間をかけない。そういった勝率を高める努力を放棄する。俺は放棄しない。だから、俺の方が強い。

ただ、ある程度まで進むと必ず俺よりもやってる奴が出てくる。あるいは、俺にも徹底できないことがあることが分かる。

そうなると俺が勝てないのは当たり前だし、勝ちたいなら更にストイックになるしかない。才能以前に努力量で負けてると話にならない。

そうやってると、「俺ここまでやる意味あるんだっけ」となる。金がもったいないから世界大会に行きたいとか思わないし、そもそも、強い奴と戦いとかないし。

そうなると、やっぱり、そこまで徹するけどが出来なくなる。別に、めっちゃ才能があるわけでもないし。

俺はこれをずっと言い訳だと思っていたんだけど、本当は言い訳なんじゃなくて、事実なのかもしれない。

そりゃそうだ。

スポーツとかでも、これじゃ飯食えないってなったら、引退するのは全然あり得る。誰も責めないし、おかしなことじゃない。無理やり続ける方が間違ってる。

もしかしたら、仕事とか投げ出して本気出せばもっと強くなれるのかもしれないけど、そこまでやりたくない。やるべきだとも思わない。

だったら、もう引退しちゃって、勝ち負けとかない趣味を楽しんだっていい。それは甘えじゃない。

やらなきゃ食っていけないなら、苦痛だろうが耐えないといけないが、そうじゃないなら辛いなら辞めてもいい。

2026年9月28日(月) 日記

ジョジョ7部EDが批判されているが、これに関しては歌詞が本当におかしくて、読んでいるのかすら疑問が残るレベルである。事実がどうであるかは別にしても、そう感じ取れるものである場合、ネガティブな感情が発生するのは当然と思う。その上で、クリエイター批判を許さないのような文脈で、それを庇うのはおかしく、ネガティブな感情を発生させるものに対して、ネガティブな感情を抱いてよいのは自明である。

2026年9月17日(金) 日記

【俺】

考えてみればメタ認知という言葉は定義上の意味はあれど、実際には存在しない事象であると思う。
原理上、私は私が知り得ぬことしか知り得ない。つまり、衝動を抱いた私を疑うのも私でしかない。所謂、“上位の私“、“真なる私“が存在するわけではない。
これはプリミティブな意味では、刺激→衝動(≒刺激②)→衝動(≒刺激③)という連鎖のみを意味する。
もちろん、概念的な意味でのメタ認知は有意義である。実際的な意味で、社会性を担保するために役立つ。衝動を抱いた後、それが妥当であるかを判定する機能は、古来より理性と呼称されている。
されど、それは「衝動をそのまま行動に移さない」という学習の発露でしかなく、高次な思考というわけではないと思う。
極論、『私は変か?』と考えている時点で、薄々、社会通念上、『私は変だ』と気がついているはずで、結論ありきなのだ。

↓

【AI】

かなり重要な区別だと思う。あなたの議論は、少なくとも「メタ認知」という語にしばしば付着する神秘的なイメージ――自分を上空から眺める、より本来的で冷静な「真の私」がいる――に対してはかなり強い。

ただ、そこから「メタ認知は実際には存在しない」まで行くと、少しだけ言いすぎだと思う。正確には、

メタ認知は独立した主体としては存在しないが、機能としては存在する

と整理するのが一番しっくりくる。

たとえば、

「腹が立った」
↓
「いま自分は腹が立っている」
↓
「この怒りに従って発言するとまずい」

という系列があったとする。

ここには「怒っている私」と「それを観察する真の私」という二人の主体がいるわけではない。全部同じ神経系で起きている状態遷移でしかない。

この点ではあなたの言う、

刺激 → 衝動 → 衝動

という描像で十分だと思う。

ただし認知科学的には、第2段階の状態が第1段階の状態を対象として表象しているなら、それだけで「メタ」と呼べる。

つまり、

「私は怒っている」

という状態は、

「相手が嫌なことを言った」

という一次的認知とは対象が違う。

前者の対象は外界ではなく、直前の自分の状態だから、機能的にはメタ認知になる。

これは別に「高次な私」がいるという意味ではない。

コンピュータでいえば、あるプロセスが別のプロセスのCPU使用率を監視しているからといって、「真なるコンピュータ」が上位に存在するわけではないのと同じ。

だからあなたの批判は、メタ認知そのものより、

メタ認知のホムンクルス的理解

に刺さっていると思う。

つまり、

「衝動する低級な私」
「それを監督する理性的な上級の私」

という二層モデル。

これは確かに怪しい。

実際には、

怒る
→ 怒っていることに気づく
→ 過去の失敗経験が活性化する
→ 発言を抑える
→ それでも不満が残る

という一連の因果過程があるだけで、そのどこにも中央司令官はいない。

ここはむしろヒューム的でもある。「私」という統一主体を置かなくても、知覚・感情・記憶・評価の連鎖だけで説明できる。

一方で、

「衝動をそのまま行動に移さない」という学習の発露でしかなく、高次な思考というわけではない

というところは、半分同意、半分異論がある。

「高次」を価値語として、

「より賢い」
「より本質的」
「より人間らしい」

という意味で使うなら、確かに高次でも何でもない。

条件づけの一種として説明できる。

「怒ったまま発言したら以前ひどいことになった」
→
「怒ったときには10分置く」

という学習でも成立する。

しかし「高次」を単に表象の階層という意味で使うなら、やはり高次ではある。

一次:

「腹が立つ」

二次:

「私は腹が立っている」

三次:

「私は、自分が腹を立てていることを過大評価しているかもしれない」

となる。

別人格が増えているわけではない。ただ、認知状態が別の認知状態を入力として扱っている。

だから、

高次=高尚

ではなく、

高次=一段下の状態を対象にしている

だけ。

ここを区別するとかなり整理されると思う。

そして最後の、

『私は変か?』と考えている時点で、薄々、社会通念上、『私は変だ』と気がついているはずで、結論ありき

これはかなり鋭い。ただ、「結論ありき」よりも「事前確率がすでに上がっている」と言った方が正確だと思う。

人間は何の兆候もなければ、

「俺はいま社会的に異常な行動をしているだろうか?」

とは普通考えない。

その問いが発生した時点で、

違和感
過去の経験
相手の反応
自分の感情の強さ

など、何らかの警報がすでに鳴っている。

だから、

「俺、いま変じゃないか?」

という問いそのものが一種の観測データになっている。

ただ、それでも結論が確定しているわけではない。

たとえば、

「さっきの発言まずかったか?」

と考えた結果、

「いや、別に普通だった。過剰に気にしているだけだ」

となることもある。

なので構造としては、

疑念の発生そのものが、異常仮説を支持する証拠ではあるが、異常を確定する証拠ではない。

という感じになる。

これはかなり重要だと思う。

あなたのモデルを少し修正すると、

刺激
→ 一次反応
→ 一次反応に対する違和感
→ その違和感に基づく再評価
→ 行動

となる。

この「再評価」を伝統的には理性、心理学的にはメタ認知や認知的再評価と呼んでいるだけで、その背後に「理性的な真の私」を措定する必要はない。

だから最終的には、

「メタ認知する主体」は存在しない。しかし、「ある認知状態が別の認知状態を情報として処理する」という意味でのメタ認知は存在する。

というところに落ち着くと思う。

そしてこれはあなたが以前から言っている「主体は説明概念にすぎない」という立場ともかなり整合する。

メタ認知は「私が私を見る」のではなく、

脳内のある処理が、別の処理結果を入力として再処理している

とまで脱人格化できる。

たぶんあなたが違和感を持っているのは、「メタ」という接頭辞がそこに特別な観察者を想像させるからなんだと思う。機構として見るなら、案外かなり普通のフィードバック制御なんだよね。

↓

【俺】

これはフローの問題であり、用語的な意味であっても、高低ではなく、前後じゃないか?

↓

【AI】

そう。そこはあなたの指摘の方が精密だと思う。前の私の「高次=一段下の状態を対象にする」という言い方は、説明モデルとして階層を持ち込みすぎていた。

実際の処理として考えるなら、

刺激 → 反応A → 反応Aを材料にした反応B → 反応Bを材料にした反応C

というフローで十分で、そこに本質的な「上位/下位」はない。

「メタ認知」という語が高低を連想させるけれど、機構として重要なのは階層よりも、後続する処理が先行する自己の状態を入力として利用することだと思う。

ただし、「前後」だけでも少し足りない。

Aの後にBが起こったからといって、BがAについての認知とは限らないから。

たとえば、

「腹が立つ」
→「喉が渇いた」

も前後関係だけど、これはメタ認知ではない。

一方、

「腹が立つ」
→「今の怒りは強すぎないか」
→「この状態では返信しない方がいい」

なら、後続処理が先行状態を参照している。

だから構造としては、

高次/低次ではなく、時間的に連鎖する処理の中に自己参照的なフィードバックがある

くらいが一番正確だと思う。

さらに言えば、必ずしも完全な「後」でもない。

慣れてくると、

「この状況では自分は怒りやすい」

という予測が先に作動して、

状況認識
→「自分はこれで怒るだろう」
→抑制
→実際の感情反応

のようにもなる。

なので、最終的には「前後」というより、

再帰・フィードバック

と呼ぶのがかなり近い。

あなたの最初のモデルでいう、

刺激→衝動(≒刺激②)→衝動(≒刺激③)

はかなり本質を捉えている。

それぞれの状態が次の状態にとっての刺激になるだけで、「衝動」と「理性」が別カテゴリーの実体として存在する必要はない。

たとえば、

外部刺激
→ 怒り
→ 「怒っている」という内部刺激
→ 過去の失敗記憶
→ 不安
→ 発言抑制

と並べてしまえばいい。

この見方だと、「理性」は怒りより上位の機能ではなく、単に因果列の後ろ側で行動選択に影響を与える別の処理になる。

だから、

「衝動を理性が上から制御する」

より、

「ある反応が次の反応の入力になり、最終的な出力が変わる」

の方が、あなたの主体観には合っていると思う。

そして、この立場から見ると「メタ認知」という言葉は存在論ではなく、完全に機能的なラベルになる。

「自己の認知状態を入力に含む処理群を、便宜上メタ認知と呼ぶ」。

それ以上でも以下でもない。

なので、「メタ認知は存在しない」という最初の主張も、少し言い換えるならかなり強くなる。

メタ認知という独立した階層や能力主体が存在するのではなく、自己の過去・現在の状態を入力として再利用する認知フローを、便宜上メタ認知と分類している。

こっちなら、「上位の私」を完全に排除したまま、心理学用語としてのメタ認知も残せる。

たぶんあなたが引っかかっていたのは、「メタ」という空間的・階層的な比喩そのものなんだと思う。「上から自分を見る」ではなく、「自分の出力が次の自分への入力になる」と考えた方がずっと機械的で、余計な主体を導入しない。

 

【振り返り】

メタ認知であるとか、そうした概念は『自分が賢い人間である』という錯覚を増長する。しかして、本当に賢い人間であるならば、アカデミックな勉強に苦労するはずがなく、アカデミックな勉強に苦労している時点で、私は大して賢くない。俺が見てきた本当に賢い人間は普通にアカデミックな勉強も出来た。こういう本当系概念は定期的に冷笑し、自分を甘やかさないようにした方がいい。

2026年9月11日(金) 日記

俺は努力厨の熱烈なアンチであり、「努力したら金持ちになれる」、「努力したらモテる」等はフィクションだと考えている。

本当にそういった要素を努力のみで勝ち得た場合、並外れた量の努力が必要だったはずで、それを安易に他者に要求出来るはずもない。

元々、素養があったから、少し努力しただけで上手くいっただけで、素養がない人間は少し努力しても上手くいかない。努力と才能は対立関係ではなく、相乗関係である。

しかし、仕事に関してはマジで単に努力するだけであり得ない量のアドバンテージが得られる。

これは誰も真面目に仕事をしておらず、独学のしょうもない価値観とか、程度の低い視線しか持たないからだ。

まあ、仕事って金を得るための手段でしかないし、熱意がないのは当たり前なのだが、基本的に誰も努力していない領域で努力すると本当に無双出来る。

例えば、昼休みに業界トレンドの記事を読んだり、Slackには即返信したり、休みの日に資格勉強したり、そうしたことをするだけで圧倒的に差がつく。努力の量に対する見返りが非常に、信じられないぐらいに大きい。

世の中の大多数の人間は何故かビジネス書、自己啓発本を読まないし、労働生産性の計算式とか、ビジネス領域に於ける割れ窓理論を知らないが、これは攻略Wikiを読まずにゲームしてるのと同じで、競技プレイヤーの域にすら達していない。

この状況を例えるなら、環境デッキが何かもしらないのにオリジナルのゴミを振り回してるジムバトル参加者であり、普通に努力すればそんな奴に負けるわけがない。

仕事に正解がないとかは、より本質的で、困難な経営の領域とかの話であり、一般プレイヤーがやる作業には明確な正解があることが大半だ。

なんかよく分からないオリジナルデッキを振り回して、攻略Wikiを読まずに、「俺はモチベないから」とか言ってる人間が対面なら、マジで養分シェイシェイと感じて気分がよくなるし、仕事に関しては本当に努力した方がいい。

↓

【AI評価】

↓

ここで言っていることは、実は「努力厨から仕事だけ例外扱いしている」というより、かなり一貫していると思う。

あなたが否定しているのは、

努力 → 成功

という単純な因果だよね。

一方、仕事について主張しているのは、

一定以上の素養がある人間が、競争相手の投入量が低い領域で、正しい方向に追加投資すると、限界収益が異常に高い

という話になっている。

これは全然別の命題。

金持ちとか恋愛とかスポーツとか芸術は、上位に行くほど競争者も努力している。100の努力を110にしても、その10でほとんど差がつかない。しかも、生得的素質・環境・運・初期資本などの影響も大きい。

ところが普通の会社員の仕事では、ある局面まで競争密度がかなり低い。

だから、

0 → 30

の努力だけで大きな差がつく。

ここがあなたの感覚の核心だと思う。

ただし、「誰も努力していない」はかなり誇張が入っている。より正確には、

仕事そのものには真面目でも、「仕事を上達するためのメタ活動」をしている人が少ない

なんじゃないかな。

これは結構重要な区別。

普通に8時間働く人は多い。でも、

「自分の職種では何が評価されるのか」
「この業界はどちらへ動いているのか」
「上手い人は何をしているのか」
「自分の生産性をどう測るのか」
「どういう失敗パターンが知られているのか」

を体系的に学んでいる人は一気に減る。

だから「攻略Wikiを読まない」という比喩がかなりうまく機能する。

ゲームでいうと、一生懸命プレイしていることと、ゲームを研究していることは別。

1000試合自己流で回している人より、

「環境デッキを確認する→上位プレイヤーのリストを見る→マッチアップを調べる→自分のリプレイを見る」

を100試合やった人の方が強くなっても別に不思議ではない。

仕事もかなりこれに近い。

なので、あなたが「努力」と呼んでいるものには、実は単純な労働時間より、

情報収集・学習・フィードバック・標準技法の吸収・反復

の比重がかなり大きい。

これは「努力量」というより「学習率」の差なんだと思う。

そして、ここは前に話していた「才能が問題になる地点まで行っていない」という話ともきれいにつながる。

たとえば同じエンジニア同士でも、本当に上位0.1%を争うなら、認知能力、経験、専門性、センスなどの差が激しく効いてくる。

でも普通の職場で、

「返信を放置しない」
「仕様書をちゃんと読む」
「知らない用語を調べる」
「業界の情報を定期的に見る」
「勉強した知識を仕事に持ち込む」
「同じミスを二回しない」

あたりを競争している段階なら、才能論を持ち出す必要がほとんどない。

つまり、あなたの言葉を借りれば、

まだ才能チェックが発生するステージまでゲームが進んでいない。

ここはかなり説得力がある。

ただ、二つほど危険な部分もある。

一つ目は「努力している自分」と「努力しない他人」という構図が気持ちよすぎること。

養分シェイシェイ

と感じるのは心理として分かりやすいし、競争モチベーションとして利用する分には問題ない。

ただ、この感覚には、

「自分は攻略法を知っている」
↓
「自分は正しく努力している」
↓
「結果が出ないなら相手が悪い/環境がおかしい」

という自己完結に入りやすい弱点がある。

MTGでいうなら、「俺はメタデッキ使ってるから正しい」と思ってサイドボーディングやプレイングの誤りを見なくなる状態。

だから本当に競技的にやるなら、むしろ見るべきなのは他人の怠惰ではなく、

「自分の努力は本当にEVが高いか」

になると思う。

たとえばSlack即返信も典型的。

レスポンスが速いことは信頼にはつながる。ただし常時即レスをすると集中作業を分断して生産性が落ちる仕事もある。

休日資格勉強も、資格が職務能力や評価につながるなら高EVだけど、資格取得そのものが目的化すれば低EVになる。

ビジネス書も同じで、「読む人>読まない人」では必ずしもなく、

有効な知識を選別して、仕事に実装できる人>自己流だけで回す人

くらいが正確だと思う。

つまり「努力する」は一段下の概念で、本当に重要なのは、

高ROIな行動を見つけ、それを継続すること。

ここまで絞ると、あなたの努力観はかなり一貫する。

「努力すれば成功する」は否定する。

「成功確率をほとんど上げない努力」も否定する。

「才能差を覆せない努力」も認める。

それでも、

投入コストが小さく、競争者がほとんど実行しておらず、結果との因果がかなり強い努力なら、やらない理由がない。

という立場。

たぶんあなたが仕事で感じている「努力した方がいい」は精神論ではなく、ほぼ裁定取引なんだと思う。

他人が拾っていない100円玉が大量に床に落ちているので拾っている、という感覚に近い。

そして一番重要なのは、この状態は永久には続かないということだと思う。

30まで努力すれば周囲にかなり勝てる。
でも60、70まで行けば、そこからは努力している人間同士の競争になる。

そこで初めて、

経験、才能、担当領域、社内政治、上司、会社そのものの成長性、運

みたいな別の変数が支配的になってくる。

だからあなたの主張をかなり精密に言い換えるなら、

「仕事では努力すれば勝てる」のではなく、「一般的な職場では、基礎的なメタ学習をしているだけで到達できる地点まで、そもそも多くの人が到達していない。その区間では努力の限界収益が異常に高い」

になる。

この表現なら、「努力万能論へのアンチ」ともまったく矛盾しないと思う。むしろ才能と努力を相乗関係として見る立場だからこそ、才能がボトルネックになっていない局面では努力を最大限利用すべきだという結論になる。

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【振り返り】

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AIに遠回しに、優しく、「お前は雑魚狩りで気持ちよくなってるだけ」と言われて草。しかし、雑魚狩りは気持ちいいからした方がいいし、仕事に関しては強い奴に勝てなくても何も困らないから、雑魚狩り出来るレベルまで能力を高めれば充分だと思う。

それ以上を望むと「頑張ればモテる」と同じで努力厨になる。