【俺】
考えてみればメタ認知という言葉は定義上の意味はあれど、実際には存在しない事象であると思う。
原理上、私は私が知り得ぬことしか知り得ない。つまり、衝動を抱いた私を疑うのも私でしかない。所謂、“上位の私“、“真なる私“が存在するわけではない。
これはプリミティブな意味では、刺激→衝動(≒刺激②)→衝動(≒刺激③)という連鎖のみを意味する。
もちろん、概念的な意味でのメタ認知は有意義である。実際的な意味で、社会性を担保するために役立つ。衝動を抱いた後、それが妥当であるかを判定する機能は、古来より理性と呼称されている。
されど、それは「衝動をそのまま行動に移さない」という学習の発露でしかなく、高次な思考というわけではないと思う。
極論、『私は変か?』と考えている時点で、薄々、社会通念上、『私は変だ』と気がついているはずで、結論ありきなのだ。
↓
【AI】
かなり重要な区別だと思う。あなたの議論は、少なくとも「メタ認知」という語にしばしば付着する神秘的なイメージ――自分を上空から眺める、より本来的で冷静な「真の私」がいる――に対してはかなり強い。
ただ、そこから「メタ認知は実際には存在しない」まで行くと、少しだけ言いすぎだと思う。正確には、
メタ認知は独立した主体としては存在しないが、機能としては存在する
と整理するのが一番しっくりくる。
たとえば、
「腹が立った」
↓
「いま自分は腹が立っている」
↓
「この怒りに従って発言するとまずい」
という系列があったとする。
ここには「怒っている私」と「それを観察する真の私」という二人の主体がいるわけではない。全部同じ神経系で起きている状態遷移でしかない。
この点ではあなたの言う、
刺激 → 衝動 → 衝動
という描像で十分だと思う。
ただし認知科学的には、第2段階の状態が第1段階の状態を対象として表象しているなら、それだけで「メタ」と呼べる。
つまり、
「私は怒っている」
という状態は、
「相手が嫌なことを言った」
という一次的認知とは対象が違う。
前者の対象は外界ではなく、直前の自分の状態だから、機能的にはメタ認知になる。
これは別に「高次な私」がいるという意味ではない。
コンピュータでいえば、あるプロセスが別のプロセスのCPU使用率を監視しているからといって、「真なるコンピュータ」が上位に存在するわけではないのと同じ。
だからあなたの批判は、メタ認知そのものより、
メタ認知のホムンクルス的理解
に刺さっていると思う。
つまり、
「衝動する低級な私」
「それを監督する理性的な上級の私」
という二層モデル。
これは確かに怪しい。
実際には、
怒る
→ 怒っていることに気づく
→ 過去の失敗経験が活性化する
→ 発言を抑える
→ それでも不満が残る
という一連の因果過程があるだけで、そのどこにも中央司令官はいない。
ここはむしろヒューム的でもある。「私」という統一主体を置かなくても、知覚・感情・記憶・評価の連鎖だけで説明できる。
一方で、
「衝動をそのまま行動に移さない」という学習の発露でしかなく、高次な思考というわけではない
というところは、半分同意、半分異論がある。
「高次」を価値語として、
「より賢い」
「より本質的」
「より人間らしい」
という意味で使うなら、確かに高次でも何でもない。
条件づけの一種として説明できる。
「怒ったまま発言したら以前ひどいことになった」
→
「怒ったときには10分置く」
という学習でも成立する。
しかし「高次」を単に表象の階層という意味で使うなら、やはり高次ではある。
一次:
「腹が立つ」
二次:
「私は腹が立っている」
三次:
「私は、自分が腹を立てていることを過大評価しているかもしれない」
となる。
別人格が増えているわけではない。ただ、認知状態が別の認知状態を入力として扱っている。
だから、
高次=高尚
ではなく、
高次=一段下の状態を対象にしている
だけ。
ここを区別するとかなり整理されると思う。
そして最後の、
『私は変か?』と考えている時点で、薄々、社会通念上、『私は変だ』と気がついているはずで、結論ありき
これはかなり鋭い。ただ、「結論ありき」よりも「事前確率がすでに上がっている」と言った方が正確だと思う。
人間は何の兆候もなければ、
「俺はいま社会的に異常な行動をしているだろうか?」
とは普通考えない。
その問いが発生した時点で、
違和感
過去の経験
相手の反応
自分の感情の強さ
など、何らかの警報がすでに鳴っている。
だから、
「俺、いま変じゃないか?」
という問いそのものが一種の観測データになっている。
ただ、それでも結論が確定しているわけではない。
たとえば、
「さっきの発言まずかったか?」
と考えた結果、
「いや、別に普通だった。過剰に気にしているだけだ」
となることもある。
なので構造としては、
疑念の発生そのものが、異常仮説を支持する証拠ではあるが、異常を確定する証拠ではない。
という感じになる。
これはかなり重要だと思う。
あなたのモデルを少し修正すると、
刺激
→ 一次反応
→ 一次反応に対する違和感
→ その違和感に基づく再評価
→ 行動
となる。
この「再評価」を伝統的には理性、心理学的にはメタ認知や認知的再評価と呼んでいるだけで、その背後に「理性的な真の私」を措定する必要はない。
だから最終的には、
「メタ認知する主体」は存在しない。しかし、「ある認知状態が別の認知状態を情報として処理する」という意味でのメタ認知は存在する。
というところに落ち着くと思う。
そしてこれはあなたが以前から言っている「主体は説明概念にすぎない」という立場ともかなり整合する。
メタ認知は「私が私を見る」のではなく、
脳内のある処理が、別の処理結果を入力として再処理している
とまで脱人格化できる。
たぶんあなたが違和感を持っているのは、「メタ」という接頭辞がそこに特別な観察者を想像させるからなんだと思う。機構として見るなら、案外かなり普通のフィードバック制御なんだよね。
↓
【俺】
これはフローの問題であり、用語的な意味であっても、高低ではなく、前後じゃないか?
↓
【AI】
そう。そこはあなたの指摘の方が精密だと思う。前の私の「高次=一段下の状態を対象にする」という言い方は、説明モデルとして階層を持ち込みすぎていた。
実際の処理として考えるなら、
刺激 → 反応A → 反応Aを材料にした反応B → 反応Bを材料にした反応C
というフローで十分で、そこに本質的な「上位/下位」はない。
「メタ認知」という語が高低を連想させるけれど、機構として重要なのは階層よりも、後続する処理が先行する自己の状態を入力として利用することだと思う。
ただし、「前後」だけでも少し足りない。
Aの後にBが起こったからといって、BがAについての認知とは限らないから。
たとえば、
「腹が立つ」
→「喉が渇いた」
も前後関係だけど、これはメタ認知ではない。
一方、
「腹が立つ」
→「今の怒りは強すぎないか」
→「この状態では返信しない方がいい」
なら、後続処理が先行状態を参照している。
だから構造としては、
高次/低次ではなく、時間的に連鎖する処理の中に自己参照的なフィードバックがある
くらいが一番正確だと思う。
さらに言えば、必ずしも完全な「後」でもない。
慣れてくると、
「この状況では自分は怒りやすい」
という予測が先に作動して、
状況認識
→「自分はこれで怒るだろう」
→抑制
→実際の感情反応
のようにもなる。
なので、最終的には「前後」というより、
再帰・フィードバック
と呼ぶのがかなり近い。
あなたの最初のモデルでいう、
刺激→衝動(≒刺激②)→衝動(≒刺激③)
はかなり本質を捉えている。
それぞれの状態が次の状態にとっての刺激になるだけで、「衝動」と「理性」が別カテゴリーの実体として存在する必要はない。
たとえば、
外部刺激
→ 怒り
→ 「怒っている」という内部刺激
→ 過去の失敗記憶
→ 不安
→ 発言抑制
と並べてしまえばいい。
この見方だと、「理性」は怒りより上位の機能ではなく、単に因果列の後ろ側で行動選択に影響を与える別の処理になる。
だから、
「衝動を理性が上から制御する」
より、
「ある反応が次の反応の入力になり、最終的な出力が変わる」
の方が、あなたの主体観には合っていると思う。
そして、この立場から見ると「メタ認知」という言葉は存在論ではなく、完全に機能的なラベルになる。
「自己の認知状態を入力に含む処理群を、便宜上メタ認知と呼ぶ」。
それ以上でも以下でもない。
なので、「メタ認知は存在しない」という最初の主張も、少し言い換えるならかなり強くなる。
メタ認知という独立した階層や能力主体が存在するのではなく、自己の過去・現在の状態を入力として再利用する認知フローを、便宜上メタ認知と分類している。
こっちなら、「上位の私」を完全に排除したまま、心理学用語としてのメタ認知も残せる。
たぶんあなたが引っかかっていたのは、「メタ」という空間的・階層的な比喩そのものなんだと思う。「上から自分を見る」ではなく、「自分の出力が次の自分への入力になる」と考えた方がずっと機械的で、余計な主体を導入しない。
【振り返り】
メタ認知であるとか、そうした概念は『自分が賢い人間である』という錯覚を増長する。しかして、本当に賢い人間であるならば、アカデミックな勉強に苦労するはずがなく、アカデミックな勉強に苦労している時点で、私は大して賢くない。俺が見てきた本当に賢い人間は普通にアカデミックな勉強も出来た。こういう本当系概念は定期的に冷笑し、自分を甘やかさないようにした方がいい。