2022年4月7日(木):合理に対する所感
快楽主義への批判に、快楽機械(イメージとしては快楽中枢を刺激する電極だろうか?)があったとして、快楽主義者はそれを一生使用するのか?というものがある。
これは非常に美しい反証で、快楽主義者は快楽を得るために生きていないという事実を浮き彫りにする。
快楽主義者は快楽そのものではなく、快楽に付随する“不合理な何かしら”を愛しているのである。
合理的に考えれば、酒池肉林の大豪遊も、快楽中枢への電気刺激も、得られるものは同じであり、どちらでも構わないはずだ。
だが、後者を選ぶ人間はいないだろう。
人間は元来、感情的な生き物だ。
基本的に、合理より感情を優先する。
プロスペクト理論然り、コンコルド効果然り、脳がそのように設計されてるのは明白だろう。
だからこそ、合理は万能にはなり得ない。合理的に正しくても嫌だというのは、往々にして起こり得る。
それを愚かと批判するのは容易いが、しかし、感情的な生き物に合理を徹底させようというのも、同様に愚かしい。
意味のあるなし、価値のあるなしで、合理的に物事を判断するのが正しいという論調がある。実際、大体の場合に置いて、それは正しい。
しかし、合理はツールであり、真理ではない。
合理的に解決出来ないことは山のようにある。
例えば『葬式なんて金と時間の無駄。墓も場所がもったいないから死体はゴミ処理場で処分するようにしよう。』という意見があるとする。
これに対して合理的に反論するのは不可能だ。
ただ、こんな意見に頷く奴はいない。
長々と書いたが、つまり、合理であるかは、あくまで基準でしかないのだ。合理的であればよいというものではない。
合理を信用しすぎないのが正しい。