2022年6月14日(火):ぺこおらにすぱあちゃする

自分が“正しい”ことを誰しもが望む。正義が悪より心地よい以上、正義が必ず勝つのは当然のことだろう。SNSの過ちに対する熱狂的な弾圧は、正義が如何に好まれるかを如実に表している。

宗教とは、正しく在りたいという欲望の体現に思える。(おそらくは)世界の成り立ちを説明するために生み出された虚数的な存在が、役目を果たした今でも力を持つ理由は、人がそれを望むからに他ならない。

実際、神に奉仕する者は、自らの正しさに疑いの余地がないという点で、間違いなく幸福だ。

しかし、問題は、新たに信仰を持つことの困難さにある。真に神を信じる者が救われ、私欲のために神に縋ろうとする者が救われないのは、実に寓話的でよく出来ている

こう考えれば、“推し”も、信じる者のみが救われる点で神に似ている。

推しに貢ぐことはよく非難されているが、神との相似を考えれば、何ら不自然な行為ではない。貢ぐことは、奉仕だ。神への奉仕は、神を信じ続ける限り、精神の安寧をもたらす。同じように、推しへの奉仕は、推しを推し続ける限り、精神の安寧をもたらすのだろう。

神なき世代の熱狂的な“推し”ブームは、必然なのかもしれない。