2022年6月5日(日): 結局、いつだって感覚が先にあり、後から理由を探しているような、そんな気がする。
俺はかなり熱心な人は変われない論者であり、変わろうとする努力も、変えようとする努力も無駄だと思うのだが、その理由について備忘録的に書いておく。
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俺は学生時代、ずっと文化祭だとか、体育祭みたいな、皆で何かをする行事が嫌いだった。こんな無意味なガキの遊びで何かしらを学べるはずがないし、自由参加にしてほしいと願っていたように思う。
この考えが変わることはあるだろうか?
アニメだとか、ドラマだとかを見ていると、当時の俺のような価値観のキャラクターが、何だかんだあり文化祭に参加して、クラスに馴染むシチュエーションが散見される。
なら、俺にも同じような経験があれば、学校行事が下らないなんて思わないように、“変われた”んだろうか?
答えはYESだ。
きっと、自分が主役になれば、学校行事が下らないなんて思わない。
だが、待ってほしい。
じゃあ、俺はそもそも、何で学校行事が嫌いだったんだろうか?
そんなん語るまでもなく、自分が主役でも何でもなかったからだ。居てもいなくても同じような役回りなのだから、楽しめるはずがない。
つまり、俺は何も変わっていない。
変わったのは状況だ。
よって、俺が変わるには更に遡り、主役になれないと考える理由を正さなければならない。
では、次のステップに行こう。
俺はそもそも何で、学校行事で主役になれなかったんだろうか?言い換えれば、どうしてリア充になれなかったんだろうか?
見栄えするような外見じゃなかったから?
運動神経が良くなかったから?
まあ、理由は色々あると思う。
ただ、どれも本質ではない。
見栄えするような外見じゃなかろうが、運動神経が悪かろうが、リア充と呼べるような人間はいくらでもいた。
結論から言えば、リア充になろうとしなかったからだ。正確には、リア充になろうと努力しなかったからだ。
積極的に人と関わり、繋がりを大事にするような在り方をしなかったが故に、俺はリア充になれなかった。
更に次のステップに進もう。
なら、俺は何でリア充になろうとしなかったのだろうか?
言い換えるならば、俺は何故、周りの人に話しかけ、交友の輪を広げようとしなかったのだろうか?
答えは単純だ。
面倒くさかったからだ。
いよいよ、最終ステップだ。
俺は何故、交友の輪を広げるのが面倒だったのだろうか。
答えは、そういう気質であり、そういう嗜好であり、そういう脳の構造だったからだ。そして、当たり前だが、脳の構造は変えることが出来ない。
だから、結局、俺は交友関係を広げず、リア充になれないまま、文化祭はつまらないと思い続けるしかない。
納得出来ないだろうか?
交友の輪を広げるのが面倒なのにも、過去に失敗体験があっただとかの理由があるはずで、根本原因を正せば、人は変われるだろうか。
しかし、仮に2人の人間が全く同じ環境で、全く同じように生きたとして、2人は同一の思考をするだろうか?同一の嗜好となるだろうか?
その個体にとって、何故、ある出来事が不快であるのかを全て論理で説明するのは不可能だ。
結局、いつだって感覚が先にあり、後から理由を探しているような、そんな気がする。人を支配しているのは、理性ではなく、脳の構造に起因した好悪だ。
だから、人は変われない。