2022年6月2日(木): 息苦しいほどの複雑さから目を逸らすべきではない、ごくシンプルな(これは誇大表現であり、実際にはシンプルとは言い難い)理由

人間社会にシンプルなものなど何一つとして存在しない。あらゆる事象は常に複雑である。故に、我々は単純化する。それは実生活において、仕方がない。全ての複雑さと向き合うには、時間も、労力も足りないのだから。

しかし、単純化はあくまで妥協である。

複雑なものを理解するには難しいから、単純に考えているに過ぎない。それを無視し、単純化して出来上がった解釈を、疑いようのない真実と捉えるのは、やはり間違っている。

例えばの話をしよう。

裕福な家庭の幼児と、貧乏な家庭の幼児に、「このお菓子を食べるのを5分間我慢したら、2倍のお菓子をあげる」と言い、お菓子を与えたとする。

結果、裕福な家庭の幼児は5分間我慢し、貧乏な家庭の幼児の大半は5分間我慢しなかった。

ここで裕福な家庭の幼児の方が教育水準が高いとするのは容易い。それが最もシンプルな、分かりやすい解釈だ。

だが、貧乏な家庭の幼児は、以前にお菓子をすぐに食べなかったら、誰かに取られてしまった経験がある。だから、5分後の報酬に期待せず、さっさと食べることを選んだのだ。

この場合、お菓子をすぐに食べるのは愚かと言えるのだろうか?

実際には更に複雑だ。

大抵、人間が行動を選択する理由は単一ではない。複数の理由を組み合わせた上で、自分を納得させる。当然、他者からは脳内で行われる取捨選択は窺い知れない。

結局、我々が目に出来るのは、思考ではなく、思考の結果として出力される行動のみだ。

故に、行動がどれだけ愚かしく見えようが、実際に愚かなのかは分からない。ただ、愚かしく見える行動をしたから、思考も愚かであると判断するに過ぎない。

単一の人間ですら曖昧さを孕むのだから、これが複数人になった際、あり得ないほどに難解となる。数多の思考が、数多の行動となり、様々な成果物が出力されるが、この成果物から、個々人の思考を読み解くなど不可能だ。

故に、我々は“仕方なく”単純化するのだ。

我々は常に複雑な事象から、本当にそうだかは分からないが、恐らくそうであろうと予想される、単純化された憶測を導き出す。

当然、憶測は憶測に過ぎない。

それを忘れてはならない。